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探索・シルクカントリー 絹と日本文化⑭ 村上貿易㈱、エリモ工業㈱が製品化促進

ふとしたことから、絹と日本文化を探索しているうちに、私自身が壁紙の世界に興味を抱き、必然的に壁紙の歴史を浅学する形が生まれてきました。 「キビソ織物壁紙」が織元職人伊藤恵三氏によって織りあげられた生地が、京都府のエリモ工業㈱で裏打ちされて製品が誕生した。 一連の流れの中で、村上貿易㈱、エリモ工業㈱の多大なご苦労に感謝しつつ、詳細な壁紙の歴史は専門家に委ねるとして、両社の社歴の凄さに改めて感動している。
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戦後の日本の貿易は、GHQの管理下に置かれて、形式的には昭和26年の対日講和条約の締結まで続くが、ドッジ・ライン等の為替レートが設定されたりして、輸入取引も民間に移されて、 事実上GHQの管理貿易時代は終わり、以後は民間貿易が主体となった。
(現)村上貿易㈱の創業時は、漁具製造業販売業として、販売先は国内が主であったが、一部アメリカにも輸出するようになり、それが縁でアメリカの取引先から雑貨などの注文がくるようになった。 戦後は、岡本葛布が葛布の輸出を行う際、静岡県の商工課が資金融資をして、県の産業育成策の一環として行われたことがきっかけとなり、昭和27年になって自家製造を考え、 静岡県草薙に羽衣壁紙を設立、ここで葛布壁紙の製造を開始した。 村上貿易㈱が輸出をすることになった。

当時、業界に発行されていた「紙業日日新聞」昭和30年2月21日の記事によると、通産省の軽工業品部会の年度計画の中で、「葛布壁紙の主原料である葛を朝鮮より輸入を採取期に安価、 確実に輸入できるように外貨割当てを行う」として、3万4000ドルの外貨が割当てられたことが報じられている。
当時のレートは1ドル360円だったので、これは日本円にすると1億2000万円になる。 輸出する場合は、これに織り、染め、裏打ちなどの加工が加わるので、この数倍の価格となるわけで、30年代の初めに国内の壁紙業者が「売上げにもならない」位の壁紙を扱っていた時、 すでに葛布壁紙は安全な生産軌道に乗っていたとされる。
その後の経緯は別の機会に触れるとして、織元職人も数多く居たようだが現在は、数少なくなってきている。

一方、「キビソ織物壁紙」が製品化できた協力会社は、(現)京都府木津川市加茂町兎並船屋3番地で、初代梶田大蔵氏が裂織工場を明治20年に設立、麻布製造販売を開始した。 その後襖紙の製造に転換し、「都也古」の商標で、大正時代には日本一の生産量を誇ったと伝えられている。
昭和22年に3代目梶田大蔵が、梶田織物㈱を設立し、その後、昭和55年にエリモ工業㈱を設立し、梶田昌弘氏が社長に就任した。 平成26年に中村由之氏が代表取締役になった。 現在は、織物、和紙などの天然素材を主とした壁紙メーカーとして、トップクラスの生産高を有し、直輸出入もしている。
当地は、百人一首の「かみの原わきてながるる泉河いつみきとてか恋しかるらん」で知られる景色の良い所で古くから綿・スフ織物の産地として有名な町。 織物から染色・仕上げまで一貫した生産設備を持ち、常に品質及び生産性の向上に即した体制を完備し、「地球にやさしい」をモットーに努力している。
両社の優れた技術と自然素材を大切に育む社歴から生まれた「キビソ織物壁紙」が果たして商売として基より、消費者に認知され、住空間を彩る素材として商材になるのかどうか、 完成した商品を肌で感じながら、新たな挑戦と使命感が私の心を熱くさせてくれたのも事実です。
次回からは本格的な事業への歩みを紹介したいと思います。
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探索・シルクカントリー 絹と日本文化⑬ 職人の技からキビソ織物壁紙が誕生

葛布の織元職人伊藤恵三氏は「キビソ(絹)」を手にとり、「厄介なものを引き受けたなぁ」と思った通り、キビソは太い、細いにより斑が激しく、引っ張り強度があり硬い。 更にところどごろに繭の一部が付着している素材では、とても動力織機では織れない。 キビソを織るには、掛川で昔から使われている葛織(くずばた)で織るしかない。 組織は平織で、経糸は絹紡糸を使う事で、伊藤氏は概ねの構想ができあがり、説明を受ける。 私は、織物についての知識は薄いので、読者と共に基本的な事を予習しておきたいと思う。
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一般的に織物壁紙の素材としては絹・麻・綿等の天然繊維、レーヨン・ポリエステル・人絹等の合成・再生組織がある。
織物は、タテ糸とヨコ糸を「交差させて平面に織りあげるもの」だが、大きく分けて三つの織り方がある。 最も基本的なものが「平織」と呼ばれ、摩擦強度があり、織物の量産品はほとんどがこれと言われる。 平織が糸の密度を高めたり地合を厚くする事ができないのに対し、「綾織(あやおり)」は三本以上任意の糸で作り、表面に斜文線が表れ、糸の密度を高め厚みも出せる。 「朱子織」はタテ糸とヨコ糸の交わりを極力少なくするため、表面を平滑にでき、糸の密度を高くして地合をずっと厚いものにできるが、反面強度が弱いという難点もあり、 一般に「緞子(ドンス)地」と呼ばれる織り方と聞きました。

実際に、伊藤氏が機織りを始めると、キビソの糸は太いので緯管(よこくだ)の交換が早く、苦労しているとの話しでしたが、この表現の意味が良く理解できなかったので、 確認したところ「シャトル(杼)=織物を織る時に経糸の間に緯糸を通すのに使われる道具の中にキビソ糸を納めるが、素材に斑があるため巻数量が少ない事から、交換の手間がかかる。 キビソの歩溜りは65%~70%で一日の稼働で15m~20m位しか織れないと、苦労されている伊藤氏の状況が良く理解できました。
伊藤氏が、「この曲者を織る事は、苦労するが面白く、遣り甲斐がありますね。 私は普段は、芭蕉の手結び糸で襖や壁紙の生地を織って、これも相当の曲者ですが、50年近くつき合ってきたので、キビソを織る事は我慢できるが、他の人はどうでしょうか? できないでしょうね。」と話されたのが印象的でした。
流石に私も現場を訪れた時に、一連の作業を拝見しながら、内心は多少の動揺がありましたが、伊藤氏の純粋な職人魂に触れ、燃える勇気を頂いた事も確かです。

問題はこれからです。 当初の目的は、100mのキビソ織物壁紙を製品化する事でしたから、織あげた生地(キビソ)を製品に仕上げる最終工程をどこに、どのようにするかで、また新たな交渉が始まった。
この段階で、㈱羽衣壁紙工業所の親会社である村上貿易㈱の橋渡しで、京都府にあるエリモ工業㈱に依頼し、「キビソ織物壁紙」として誕生することになった。
村上貿易㈱は、明治34年(1901年)5月に清水市(現・静岡県清水区)で村上漁具製作所を創業した。 同社は、昭和23年開業以来、100%子会社の羽衣壁紙製造所と連携して、海外市場向けに「紙布」で作った壁紙を販売し、葛布壁紙を欧米に輸出する事で一世風靡し、 現在は、他の素材では出せない風合い・織り感を備えた数々の製品を世界中に発信している企業。
次回は貿易を通じて日本文化を知る。
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探索・シルクカントリー 絹と日本文化⑫ 阿芭可布・葛布の織元職人の技

日本の文化は、紙の歴史と共に歩み、多種多彩な活用と表現によって育まれ、表具師、経師の匠の技がその礎を築いてきたように思います。 「キビソ(絹)」を通じて、㈱菊池襖紙工場と接する機会が増えるにつれて「襖紙」の奥深さを知ることができました。
建築に携わる立場から「茶室」の設えは理解しておりましたが、千家十職の表具師といえども、茶室の襖を全部貼り替えるのは、 一代に一度程度と聞き、しっかり組んだ下地骨と数回の下貼り、胡粉を引いた生漉きの美濃紙、本漆で仕上げた塗り縁-これらで作られた襖は、30年はもつと言われます。 ある資料で「紙は心で漉く」とあり、この”漉く”という意味は、水をこすということだそうです。
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日本人の感性の鋭さが、紙を造ると言う動作の中に”紙を漉く”ことに1400年以上もの長い歴史を経ながら匠の技と文化を継承してきた事に感銘を受けます。
さて、話は重複しますが、前号で葛布の産地掛川に触れ、江戸時代に諸国の銘産を記した「毛吹草」や「日本鹿子」は遠江(静岡)の銘産の一つとして掛川の葛布を載せている。 明治期に掛川の葛布や紙布、このほか芭蕉布等が、まず襖用として使われ、後に壁紙用として発展し奈良や京都の織物がこの影響を受け西陣織、つづれ織り等がある。
「キビソ(絹)」が、㈱菊池襖紙工場星野氏と㈱羽衣壁紙工業所高橋守氏が、新たな製品づくりに一歩踏み入れた事で織物壁紙として、この地で誕生する条件が揃った。 まず、高橋氏が掛川に隣接した袋井市中新田で葛布、阿芭可布の織元老舗「そま工房」社長伊藤恵三氏と3者面談を行い、キビソの素材、特徴を説明しながら、織物壁紙として製品化したい旨を伝える。 伊藤社長は一見無造作に束ねられたキビソ(絹)を見て顔を曇らせた。 「これは葛布と似て非なる素材だ。難しいねぇ」と考え込まれた。 しかしそこは長年の職人魂が燃え上がり「可能な限り頑張ってみましょう。」と言われた。 伊藤社長の内心は、「厄介なモノを引き受けたなぁ」が本音であったと後々聞くのだが、職人根性の難しい仕事こそ意欲を燃やす伊藤社長の真骨頂が、新たな織りに挑戦され、大きな期待が生まれた瞬間でもある。

正直、ここまで話がトントン拍子に進むと思わなかった。 問題は具体的に生産体制をどのように構築し、原料の手配、製品の管理、保管から販売までのフォローチャートを見ながら、それぞれの役割を明確にする必要があった。 それは、対㈱菊池襖紙工場であり、㈱羽衣壁紙工場との取引関係を明確にすることでもあった。 この時点で私は決断をした。 会社に新たに「キビソ事業部」を設置することで人材を含め交渉した。 その結果、㈱菊池襖紙工場から星野氏を単身赴任で伊勢崎市で働いてもらうことにした。 他に電信技術に精通した若手の寺内久和氏をスカウトし、スタッフを揃えた。 早々に、積極的に活動を展開し、日々邁進の中で、㈱碓氷製糸と㈱羽衣壁紙、そま工房の連携がうまく流れるようになってきた。

当初の計画で、キビソ織物壁紙を100m試作することで進行。 1m当たり約240mの原料(キビソ)が必要になる事で、2,400mの原料を早々に発注手配した。 伊藤社長曰く、最初の作業から苦労の連続だと聞き現地を訪れる。 「キビソの束(綛)を解いて管にする作業。普通は、綾を振って巻き上げるがキビソの綛は綾振りがないので解くのに非常に厄介。最初にこんな糸織れる訳がない」と思いました。 試行錯誤を重ね何とか管にすることができるようになった。 実際に、後日現地でその様子を見ながら、素人の私でも厄介な根気のいる作業だと思いつつ胸が痛みました。
製品への苦労は更に続き、次号に綴ります。
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探索・シルクカントリー 絹と日本文化⑪ 試行錯誤から葛布壁紙に注目

住宅関連の企画販売を本職とする私が、商品開発に挑戦するのは初めての事である。 碓氷製糸工場を訪れて、「絹(キビソ)」を何とか世の中に役立つ商品開発ができないものかと千思万考の結果、有言実行を貫く決心で、西洋建築で活躍中の近藤豊三郎氏の設計事務所を訪ねた。
近藤氏から、埼玉県草加市にある株式会社菊池襖紙工場を紹介された。 早々にアポイントを取り、素材(キビソ)を持参して、商品開発の可能性を相談した。
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席上、菊池義明社長、安川部長、星野氏が異口同音に、『これは商品化するには難しい素材だ」と言われた。 この時、菊池社長が「素材(絹)」の魅力があり、少し期間に頂き検討してみよう」と言われ、営業開発プロジェクト課で星野氏が全面的に情報収集と可能性を探る任務を遂行することが決定した。
ここから先は、株式会社菊池襖紙工場と星野氏が連日連夜、試行錯誤されながらも、積極的に活動された経緯の報告を受ける立場になった。
住宅関連に関する事は熟知している私だが、インテリア業界の話になると蚊帳の外が正直のところでした。 しかし報告の内容や詳細を見聞するに至って、新たな意欲が同時に湧いてきたことも事実です。
株式会社菊池襖紙工場の報告と商品開発の経緯は概ね次のようでした。
①八王子市の角田染工株式会社を訪れ、原料<絹&キビソ>の活用可能性を情報収集する。
②和紙の小川でキビソと和紙の融合漉きを試作する。
※①、②とも結果は、商品化には難しく、この段階で株式会社菊池襖紙工場内での商品化は困難と決定。 期間中、具体的に「この素材=キビソをどのような製品にすることがベターか」を検討した。
この段階で、インテリア業界における流通や商圏の実態を、詳細に説明を受けた。 折しも、日本では民主党に政権が交代し、メディアを含めて環境問題がクローズアップされていた。
例えば、壁紙の業界で塩化ビニル壁紙が全体の80%近くのシェアを占める圧倒的な素材として扱われている。 その背景には、職人の技術と物件のバランスを含めた時代の流れがあり、多くの問題点も抱えている。
「安全」と「健康」が一つのキーワードになっている。 その観点からエコロジー製品の開発が期待される事に注目した。 自然素材=シルクは、全ての条件をクリアする最適性を備えている。 そこで次なるターゲットを織物壁紙に試みた。
一世風靡した「葛布壁紙から学ぶ」
屏風や襖障子にいわゆる「からかみ」が張られるようになる前は麻布や絹布が張られていた。 すなわち布類は紙類に先立って障子用に張るものだったのであり、壁紙の場合も必ずしも紙でなくてもよい。 ヨーロッパでは、その壁面の装飾に金唐紙やタペストリーのような織物を用いている話は、専門誌から知る。
そして、壁紙というよりは壁布として開発したのが葛布の材料である。 その特産地は、静岡県の掛川であった。
歴史を辿ると、掛川と葛布壁紙の関係が興味深く浮かび上がってくる。
株式会社菊池襖紙工場は、取引先の関係から間接的に静岡県清水市にある羽衣壁紙工業所とは面識があり、新商品開発の相談窓口に快く対応して頂くことができたと報告を受けました。
掛川の葛布壁紙は、業界でも一世風靡した実績があり、明治30年代、襖からヒントを得て作った壁紙が”カケガワ・グラス・クロス”として米国の壁紙業界で好評を得て輸出に大きく貢献することになった。 当時の繁栄ぶりは、静岡県刊の『静岡県之産業』第二巻に葛布の生産状況を記されている。(略)
何よりも注目したことは、葛布とキビソの素材に共通点が多く、仮に壁紙として製品化するには最適な条件が備わっている事。 つまり、機械織りでは難しいが、手織り職人の技術と加工法でキビソが活かせる期待が持てたことの報告を受けた。
この後、星野氏が掛川市にある株式会社羽衣工業所を訪問し、営業部長高橋守氏に面談して、具体的にキビソを織物壁紙として試作できるところまで商談が完了した事が伝わって来た。
(次回へ)
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探索・シルクカントリー 絹と日本文化⑩ 碓氷製糸工場と新製品開発に挑戦

前号で、元プロ野球選手村田兆治氏との出会いから「絹(キビソ)」の新たな挑戦が始まったと綴りました。 その背景には、世界遺産に認定された「富岡製糸場」だが、日本人の多くの人は製糸工場で稼働している状況を見た事がない方がほとんどだと思います。
当然のことですが明治維新以降、日本の養蚕産業が経済の基盤を築き、その原動力となった製糸工場がかつての最盛期から比べ、現在は碓氷製糸農業協同組合 (2017年5月株式会社に改称)と山形県酒田市の「松岡株式会社(シルク部門)」の2社だけになった。
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今回は、私の「絹(キビソ)」製品開発の前に「碓氷製糸工場」について、私の知る範囲で経緯を説明してみたいと思います。
群馬県安中市松井田町にある「碓氷製糸工場」は、妙義山を背に受け、天然のミネラルをたっぷり含んだ碓氷川の水の恵みを受けて、恵まれた環境の中で生糸作りを行っている。 純国産シルクを作れる製糸工場は少なく、純国産絹製品づくりの中核を担っている。 そんな碓氷製糸が1959年の設立以来、60年近く製糸工場の火をともし続けてきた。 今年5月に株式会社に移行した経緯を代表取締役社長高木賢氏は、次のように挨拶をされている。
「最盛期には3000人近くいた組合員も養蚕農家の引退で、今は20人余りの高齢化で、役員の引き受けも減り、法律で定める数の選出も難しくなり、外部人材登用等柔軟な組織運営がし易い株式会社を選びました。」
前号で、私が同社の工場を見学した際、組合長高村育也氏から繭から生糸の仕上げまでの説明を聞き、製糸工程の中で特に注目した箇所がありました。
「煮繭(シャケン)」→繭に蒸気を当てたり煮たりして、セリシン部分に水分膨らませ膨張させ、柔らかくする事で繭糸がほぐれやすくなる工程。 「煮繭」の工程が終わると「繰糸(ソウシ)」に移る。 ちなみに生糸の太さを測る単位を「デニール(d)」=idは、「糸の長さ450mの重量が0.05g」の物と定義されている。 簡単に言えば、9000m当たり1gである糸の太さ。
このデニールの数が多くなると糸が太くなる。 蚕が最初に吐く繭糸は、3.5デニール程の太さで、そのあと100~200m付近まではもっと太く4デニール前後、それをピークに今度は少しずつ細くなり、最後は約1.5デニール位になる。 全長約1300m~1500mにも及ぶ繭糸のうち生糸に出来る部分は約1100~1250m(約85%)前後。
残りの約15%近くは、毛羽、キビソと呼ばれる部分で生糸には不適なモノとして処分される。
何故、生糸に不適なのか?また、繭糸に太さのバラツキが出るのか?誰もが、絹は細くて光沢のある華麗な繊維としてイメージするのだが、蚕が最初に吐き繭を作る外側は、 蛹(サナギ)の間に鳥や害虫から繭を守る防波堤にして身を守るために、太くて丈夫が必要条件の習性になったのかもしれないと思った。
私が心動かされたのはこの絹の塵処理的な厄介者に苦労されている組合長の言葉に、何とか他に活用できないかと相談された時から始まった。
勿論、この時点では具体的な構想は全く描けずに漠然と「碓氷製糸と地域のために役立つ開発製品を創り出したい」という思いが強く胸に刻まれた気がします。
もう一つの疑問、何故生糸に不適なのか?
それは、「繰糸」が製糸工程で一番厳しく、核心部分の作業で、繭糸から目的の糸の太さに応じて何本か(通常10本前後)を合わせ一本の生糸にするために、毛羽やキビソのように 太い糸は駄目だということが理解できた。
次回は、開発の行錯誤を話してみたいです。
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探索・シルクカントリー 絹と日本文化⑨ 村田兆治氏(元プロ野球選手)の影響

プロローグで私が「日本(群馬)絹の恩返し」と綴ったところから、この随筆が始まったのですが、絹の歴史を紐解くに従って、その歴史の学びから一変して、 今回から私の現在の絹産業との関わりについて話を進めてみたいと思います。
私と「絹」の出会いを省みると、一人の重要な人物に出会ったことから始まった。
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その方は、プロ野球界では殿堂入りを果たし、今も現役を思わせる「マサカリ投法」で、驚異的な剛速球を披露する元プロ野球選手村田兆治氏です。
10年程前、私が開発した分譲住宅のイメージキャラクターとして、スポーツ選手を考え、知人を通じて数名の候補者の中から、名球界入りした元ロッテオリオンズの 村田兆治氏に依頼をしたところ、運良く承諾をいただくことができた。
初対面は、ゴルフ場で一緒にプレーをすることになり、最初のホールで私も村田氏も快調なドライバーショットで飛距離が伸び、目測では微妙な位置に球が止まっていたが 歩きながら、「村田さんの球は手前ですよ」と声をかけ、その球の所で「ドラエもんのマークが付いているのは武井さんでしょう!」と言われた。 内心叱られるかとドキドキでしたが、「武井さん気に入ったよ」と笑いながら親しく声をかけてもらい村田氏の人柄が温かく伝わってきた。 この感触で分譲住宅の販売も成功するぞ、と大きな期待と自信を得た事が何よりも嬉しく感じた。
後日、村田氏から電話があり、名球界祝賀パーティに参加することができ、席上当時の一流選手ともいろいろと交流させていただくことが出来て「武井さん、地域に 貢献する仕事をしなさい」と言われた。村田氏は、プロ野球界では、すでに大きな業績と貢献をされている実績があり、印象に残る言葉として、それ以来私はこの言葉 を忘れずに精進している。

ある日、シルクカントリー群馬を巡るツアーに参加し、安中市の碓氷製糸場を見学する機会があり、初めて繭を煮る独特の臭いと熱気、そして糸を引く自動繰糸機の絶えない 音から離れた時にうっかりと「この組合は元気がないなぁ」と同僚に話したことが、当時の組合長高村育也氏の耳に伝わり、応接室に呼ばれた。 厳しい注意がされると思っていたが、以外にも組合長高村氏は、蚕や繭の話と養蚕産業の現状等を熱心に話され、「沢山の人が訪れて来るが、貴方のように素直に言ってくれた 人はいない」と力強く手を握られた。この時、村田兆治氏の言葉が脳裏を横切り、「そうだ、この養蚕産業と地域に何か役立つ仕事を始めてみよう」と心に決めた瞬間でした。
証券マン時代に学んだ幾つかの業界格言の一つに「明けない夜はない」がある。 村田氏の言葉とダブらせながらシルクにも夜明けがきっとくるに違いないと思った。
碓氷製糸は、1959年(昭和34年)経営困難に陥った株式会社東邦製糸の地盤を引き継ぎ設立された。 しかし、船出は多難だった。 安価な外国産の繭、生糸の流入。 その影響は養蚕農家が減って、製糸業は相次いで廃業に追い込まれたが、碓氷製糸は踏ん張り、年間二千俵(一俵60キロ)を生産、全国一、二の生産量を誇っていた。 現在、製糸工場は群馬県の碓氷製糸株式会社と山形県酒田市にある松岡株式会社の2社だけである。
群馬県は養蚕、製糸、織物という三つの絹産業が一つの地域に全部揃ってあり、それが全て全国的な量、質を保っていた事は興味深く、次回はこの点を含め話をしたい。

◆村田兆治氏経歴
村田兆治(むらたちょうじ)本名同じ、1949年11月27日は、広島県豊田郡本郷町(現・三原町)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。 現役時代は東京オリオンズ→ロッテオリオンズで活躍した。損『ダイナミックな投球ホームは、「マサカリ投法」と呼ばれた。
◆選手情報
・プロ入り=1967年ドラフト1位指名 ・初出場=1968年10月 ・引退試合=1990年10月13日 ・コーチ歴=福岡ダイエーホークス(1990~1995) ・野球殿堂(日本)=2005年
◆タイトル(代表的な主な賞)
①最多勝=1回(1981年) ②最優秀防御率=3回 ③最多セーブ投手=1回 ④最多奪三振=4回 ⑤ベストナイン=1回 ⑥前後期MVP=2回 ⑦日本シリーズ最優秀投手賞 ⑧パリーグ・プレイオフMVP ⑨ベスト・ファーザーイエローリボン賞(1994年)他
◆著書多数出版(略)
「還暦力60歳でストレート140キロを投げる秘密」
次号に続く
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探索・シルクカントリー 絹と日本文化⑧ 世界遺産「富岡製糸場」(その3)

官営の富岡製糸場は国の模範工場として、全国に製糸作業の指導者を育成する目的を含め、全国から女工を募集した。
しかしフランスからやって来たブリュナ達は、食事の習慣上赤ワインを飲む事が「西洋人は生き血を飲む」と噂が広まり、なかなか応募が進まなかった。 初代製糸場長尾高惇忠の娘・勇が自らが「工女」に応募し伝習女工第一号となった。その後各地から人が集まり順調に稼働が始まった。
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信州松代の旧藩士の一人横田数馬の次女として英(結婚後和田)が生まれた。 (安政4年~昭和4年)当時、松代の区長だったことから県庁より富岡製糸場へ女工を出すように通達があり、英を含めた16人が入場することになった。
和田英は、明治6年(1873)に入場し、1年3ヶ月働き、器械製糸の技術を覚え明治7年に富岡製糸場を退場した。
和田英は、地元長野県埴科郡西條村(現・松代町西条)に建設された日本初の民営機械製糸場六工社の創業に参画し、その後は教授として指導的な役割を果たした。 明治11年に和田盛治と結婚。
「富岡日記」の手記は、30数年前の富岡製糸場での日々を回顧して明治41年(1908)に書かれているので人名、月日、方角、距離等では誤りがあるが、 当時の時代背景や作品の性格上、著者の原稿に添って編集されている。
藩士の父の影響を受け国益と家名のために厳しい製糸場での環境に順応し、その製糸場での生活ぶりが克明に綴られており、工場の仕組みや寄宿舎の様子がタイムスリップしてくるようだ。
例えば、一日の始まりから就眠までを、時間で表すと次のようになる。 ①朝7時に作業が始まり、②9時に30分の休憩があり、③12時から1時まで昼休み。④3時に15分の休憩、⑤概ね4時30分頃に終了。一日の労働時間は約8時間位になる。

前号で記したように、当時は電灯がなく、太陽光によって作業が行われ季節によって、操業時間が違っていたが、全てはフランス流の就業規則があり、工場の中には、病院もあり医師もいた。 医療費は全て製糸場が負担していた。 だから女工達は、世間からは注目され「富岡女工」に誇りを持ち、技術を習得し、多くの人が故郷の製糸場の指導者になった。
北は北海道から九州より、全国各地から集まってきているが、中でも上州、武州、静岡などの人達は早くから職場につき藩士の女工が多く、上品で意気があり勢力があったと綴っている。
「工女」の作業を見廻る人達は、仏人の男女4人が全体を統括し、日本人の男性が数人おり、一人が25釜受け持ち、繭えり場、糸揚げ場見廻りもこの内。 日本婦人の中廻りには、工場長の令嬢、尾高勇をはじめ6名おり、50釜に3人、25釜に一人づつ、一人は2時間ごとに交代。 1釜を3人で代わる代わる糸を取っている。 見廻り役は、釜の前を行き来し、糸のムラにならぬように絶えず目配りしていた。
当時は「座操り」といって、鍋で繭を煮て、繭から糸を引き出し、ハンドルを手で回しながら糸を巻いていた。
「座操り」が人の力で行われていたのに比べ、富岡製糸場は「動力」を使って繰糸機を動かしていた。 当時世界の製糸工場は、多くても150釜、その倍の300釜を富岡製糸場は稼働していた。 その原動力は『ブリュナ・エンジン』と呼ばれる蒸気機関をフランスから輸入した。 石炭を燃やし、その蒸気の力でエンジンを動かし、繰糸機をいっせいに回転させ稼働した。

皇太后陛下皇后陛下御行啓の折りには、御酒頂戴があり、工男工女、その他役人方一同が陛下より賜り、宴会があった話し等も綴られている。
和田英は、地元松代町に戻り、六工社の操業に尽力を尽くした。 生家は「旧横田家住宅」として国の重要文化財に指定され、保存、公開されている。
次号に続く
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探索・シルクカントリー 絹と日本文化⑦ 世界遺産「富岡製糸場」(その2)

明治政府が、日本の目指す大きな目標として掲げたスローガンは「富国強兵」で、その「富国」の最も重要な政策が「殖産興業」である。 「殖産興業」とは、「産業を殖やす」「産業を興す」事であり、産業が生み出す製品や価値を高める事であった。 いつの時代でも新しい事を始めるには資金や原料が必要である。
では、産業発展で日本はどの国をモデルにしたのか? 当時の国際情勢に加え日本の現状を考えると、開国の道を開いたアメリカ、江戸時代からの交流の深いオランダ、薩摩藩との縁から維新後も日本のパートナーであり続けたイギリス、幕府を支援したフランスをはじめ、 続きを読む
 

日本が模範にしようとした国は、ヨーロッパにはたくさんあった。 これらの調査・情報収集は、幕末から使節団の派遣を含めて積極的に行われていた。(その結果) 日本が目指したのは、イギリス型の自由競争をベースにした富強政策を、ビスマルクが率いるドイツ帝国のような強力な中央集権体制で先導していくものだと思えた。

話を「富岡製糸場」に戻すと、日本が近代化のための「殖産興業」で育成に力を注いだ産業は、「富岡製糸場」だけでなく、「長崎造船所」は幕府直営機関を出発点とする「官営工場」だった。 明治維新が幕府から受け継ぎ1884(明治17年)から岩崎弥太郎の三菱が経営することになる。
工業化のために欠かせない燃料だった石炭も国が関わっている。「産業遺産」としても注目されている「三井三池炭鉱」が「官営」とされたのは、「富岡製糸場」が建設された1873(明治3)年の事である。 1889(明治22)年三井組に払い下げられ、以降「三井三池炭鉱」として存続していた。 他にも、三菱が払い下げを受けた佐渡金山や生野銀山も明治初期は「官営」として採掘作業が進められていた。 変わったところでは、「札幌麦酒造所」も「官営」で、文明開化とともにやって来た新奇な味わい「ビール」も「官営」で酒造されていた時代である。
参考までに新潟県佐渡出身の私ですが、サッポロビールの生みの親で醸造技師中川清兵衛氏は長岡市与板町出身であり育ての親、「札幌麦酒会社」設立者大倉喜八郎氏は新発田出身です。

「富岡製糸場」を探索していく中で、日本人の感性と技術の高さに驚かされることが多い。 まず主な建物は「木骨レンガ造り」で、木の柱や梁で骨組みを造り、壁の部分にレンガを積み上げ、目地に漆喰(石灰と土の混合)を埋め込む。 レンガの積み方はフランス積みだが、赤レンガは日本人韮塚直二郎が沢山の瓦職人を集めて指揮した。(前号参照) レンガには職人の「印」が刻まれ残っている。 操糸場の窓には沢山のガラスが使われている。 明治時代の建物としては珍しく、ガラスは全てフランスから輸入したもの。
日本で板ガラスが工場生産されるのは、1907(明治40)年になってからである。 当時は電気がなく太陽光をより多く工場内に取り込むために設置されている。 そのため初期の頃は、創業時間は季節によって違っていた。 また、ガラスの位置も普通よりは高い所にある。 理由は、床とガラス窓の角度を付けることで、より工場の奥深くまで太陽光が差し込んでくるようになっている。 その結果、当時としては、前代未聞の300人が同時に作業できるという驚きの巨大工場が実現した設計工夫がされていた訳である。
その光をより効果的にしたのは「トラス構造」(写真参照)である。 何本かの木材を三角形に組んで、しっかり屋根を支える。 柱が少なくてすみ広い空間をとれることで、作業効率も捗る仕組みになっている。

ところで、『絹と日本文化』を語る上で、この「富岡製糸場」で誰が、どのように働き、日本の文明開化を推進することができたのか? その時代背景と日常生活を「富岡日記」の著者和田英女史の本(発刊・(株)みすず書房)から次号で詳しく綴りたい。
<続く>
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探索・シルクカントリー 絹と日本文化⑥ 世界遺産「富岡製糸場」(その1)

「鳥羽伏見の戦い」で幕を開けた「官軍」と「幕軍」の戦いは、戦戦兢兢とした中で、一年にも及ぶ内戦は「戊辰戦争」を経て、幕府は完全に政治生命を断たれ、新政府が誕生した。 「江戸城」改め「東京城」に明治天皇が入り、ここが皇居となり近代化の時代が始まった。
1871年(明治4)年「廃藩置県」で江戸時代の政治制度が完全に消滅した。新政府の政策は、「富国強兵」をスローガンに産業復興、貿易の拡大などによって経済力を高め、欧米諸国に植民地にされないように十分な軍備「強兵」推進することだった。
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これが200年以上続いた鎖国から近代化に加速させる重要な課題であった。
大久保利通や伊藤博文等は欧米視察に赴き、あらゆる生活様式に「文明開化」の足音が響く。 近代化を効率よくするために、先進国から「お雇い外国人」をそれぞれ分野に招聘した。 例えば鉄道関係はイギリス人、軍事面はフランス人の指導を仰ぐ事になった。 勿論、幕府時代からの関係が深い英国、仏国に依存するケースが多い。
その中で民部省(民間の殖産興業を促進させる機構)は、1870(明治3)年8月に「蚕糸場取締規則」と「蚕種製造規則」それに「蚕種製造税則」を定めた。 他の分野よりいち早く絹糸や工場設立のルールを決めた背景には、ロンドン万博やパリ万博で、日本の養蚕製造や生糸の品質+技術力が評価されていたことが、「富国」のための「殖産興業」の要になると見込んでいたからだと思う。
このことは、伊勢崎市の田島弥平、深谷市の渋沢栄一の功績は大きく影響を与えた事になり、群馬県を中心に近県が「官営工場」開設の出発点になった気がする。

この連載の始まりに触れたように、利根川の水路が、群馬と横浜を結ぶ物流手段に大きな役割があった。 現代では、新幹線や高速道路の重要性を言うに及ばず、生活に密着した交通網になっている。 同じ様な発想で、新橋と横浜に鉄道を開通させた政府は、次の重要な路線として、横浜と高崎を結ぶ鉄道を、早い段階から着工している。 その理由は、養蚕産業が盛んな土地=群馬と横浜=貿易=輸出の流れが構築できるからだ。
渋沢栄一がパリ万博に随行し、滞在期間中に多くの要人と接していた事が日本の近代化に貢献したと同時に、幕臣に優れた人材が沢山いた。 小栗上野介勘定奉行の提案で、設計技師レオンス・ヴェルニーが横須賀に造船所を設計した。 この造船所と同じく、富岡製糸場は蒸気機関を据える。 また、中島知久平が横須賀海軍工廠の海軍機関学校で学び、後にゼロ戦のエンジン製造で知られるが、現スバル富士重工業・太田市である。

さて問題の「富岡製糸場」は、民部省に雇われたポール・ブリュナで、工場設立に適した土地を調査した結果、群馬県富岡に工場設置の報告をした。 資料によれば、①養蚕業が付近一帯で盛んな地域、②繭の確保が簡単なこと、③広大で平らな土地が用意できること、④特別の技術や土木工事を必要としないで、大量の水が確保できる。⑤近くで石炭が採掘出来ること、⑥外国人を受け入れる住民の同意が得られること等であった 設計士オーギュスト・バスチャンは、和と洋を組み合わせた「木骨レンガ造」の設計を、わずか50日間で完成させている。
私が渋沢栄一に着眼しているのは常に人間関係を大切に心掛けているスピリット(魂)です。 尾高惇忠は、渋沢栄一が師と仰ぐ人物で、従兄弟であり、この人に論語を学び成長している。 尾高惇忠は富岡製糸場の建設に深く係わり建設資材の調達や女工募集に力を注ぎ、初代場長になり惇忠の長女尾高勇も女工第一号になっている。 韮塚直二郎は、富岡製糸場の煉瓦造り腐心した親分肌の人物で、この人の技術・研究がなければ「富岡製糸場」は竣工できたかどうか、難しいと言われている。 韮塚直二郎も、深谷市明戸に生まれている。
<続く>
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探索・シルクカントリー 絹と日本文化⑤ 渋沢栄一(その2)

幕末における日本人の一般的な生活は、現代人には想像できない。 交通・通信が未開発の時代にあって、歴史的な重要出来事が頻繁に起こっている。 ペリーの来航によって「開国」か「攘夷」か、という論争の中で、時代の歯車が大きく回転を始めた。 養蚕の神様と言われた上垣守國が「養蚕秘録」の技術書を出版した。 その本がシーボルトによってフランスで翻訳されことは前号で触れた。
幕末の幕臣栗本鋤雲が箱館(現・北海道)奉行を歴任した時フランス駐日公使ロッシュの通訳を務めるメルメ・カションと面識があり、
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幕府より外国奉行に任じられ、幕府による製鉄所建設や軍事顧問団招聘をした人物である。
当時、フランス皇帝ナポレオン三世に信任の厚かったロッシュの薦めでパリで開催される国際博覧会に出展することになった。 ここで一橋慶喜の弟である水戸の徳川昭武をパリに派遣することになった。 栗本鋤雲はその補佐を命じられた。
この時、慶喜から随行の命を渋沢篤太夫(栄一)は受け、書記・会計の役割を担うことになった。 羽織袴でチョンマゲを結った侍が、パリ市民は珍奇ないでたちの異邦人を見ようと、人垣ができたとの逸話がある。 渋沢は順応性があり、鋭い洞察力で臨機応変に行動した。 勿論、髪型も服装も洋風に馴染んだ。 滞在中に、外国奉行川勝広道から日本の「大政奉還」と江戸幕府の滅亡の知らせを受ける。 この時の随行メンバーの心境を考えると胸が痛みつつ歴史の大きさを感じる。 現在の様に、世界の隅々の情報がライブ中継される時代に比べ、距離と時間差は、人の運命も変えた時代である。

パリ万博は、ロンドン万博(1862年)開催に刺激を受け、ナポレオン三世が、翌年勅令を下して、1867年に開催され、初めて日本も参加したが、幕府、薩摩・佐賀両藩が出展し、それぞれが真の代表だと説く。 幕府とフランス、薩摩・佐賀藩とイギリスの援護のトライアングルの様相の中で<大政奉還=王政復古の宣言>が起きた。 ロンドン万博では、福澤諭吉(当時27歳)が幕府使節団の通訳として遣欧に随行していた。 後の活躍は語らずも、誰もが知っている人物である。 この激動の時代にあって、勇猛果敢で博学多才な偉人が多く現れ、近代日本の礎になっている。 それは幕末・維新の流れが大きく影響している。 だから小説やドラマに感動と勇気を抱くのは、日本人の文化の真髄が養われているからだと思う。 勝海舟、松平容保、近藤勇、坂本竜馬、西郷隆盛、吉田松陰、・・・

渋沢栄一は、知らせを受けた後、徳川昭武を守りつつ、一年半に及ぶパリ、近隣国の滞在経費削減に努め、万博に関する使命を果たした。 その中で博覧会出品物の売却をしながら、経済の理法、合本(株式会社)の組織の実際、金融(銀行)の仕組みなどを調査、研究をした。 この時の経験と努力が、後に近代的企業の設立、租税制度や貨幣制度等の改正・改革へと繋がっており、更には大財閥を形成した素地となっていた。 渡欧の4年前まで過激な攘夷論者であった渋沢が、西欧文明に接して、新たな運命に遭遇した事になる。 パリ万博で日本の文化や技術の高さに加え、高品質な製品の数々に、欧米人は驚愕した。 特に、紙に関する多種多彩な創意工夫に評価が高まっていた。 更に、工芸品や芸術品=デザインは、日本人の感性が精巧に活かされている事に注目が集まった。

田島弥平は、渋沢栄一の活躍と維新の時代変化に伴って、間接的に繋がり、養蚕製法の技術と蚕種をイタリアに輸送し、ミラノで直接販売する事が出来たのは、1879年(明治12年)である。 弥平は、帰国する際に「顕微鏡」を7台購入した。
<次号へ続く>
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探索・シルクカントリー 絹と日本文化④ 渋沢栄一(その1)

「事実は小説よりも奇なり」という諺がある。時代や歴史小説は、不思議な魅力があり、新たな発見に感動する> 津本陽著「小説渋沢栄一・上/下巻(幻冬舎文庫)の表紙には、チョンマゲ姿で刀を持った渋沢(上巻)と蝶ネクタイとスーツを着たハイカラな渋沢(下巻)がデザインされている。 この表紙からも激変の時代を生きた渋沢栄一の生涯が見えてくる。
絹の日本文化」を執筆しながら、人の運命や出会いの神秘さに驚く。
田島弥平は、伊勢崎市境島村地区で幼少の頃から蚕と共に暮らした。 その目と鼻の先にある深谷市に渋沢栄一が誕生している。
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頭脳と商いが巧みな父親の影響を受け、豪農の環境で育った栄一も蚕の飼育や肥料を買い集める手伝いをしながら育った。 二人の歳の差は22歳だが、波乱万丈の渋沢栄一には、その差を感じさせない行動力が旺盛であった。
田島弥平は養蚕に没頭し、その情熱は並はずれて優れ、「清涼育」を開発し、発刊した本はベストセラーになったと言われている。
一方、渋沢栄一は父親譲りの才覚と剣術に励みながら、尊王攘夷に目覚め、倒幕運動に関わる。 この辺の挙動は、小説を読みながらもワクワク、ドキドキする緊張感が伝わってきた。 あるきっかけで一橋慶喜に認められ、幕臣となった。 『ミイラ取りがミイラになる』になるような話だが、ここに時代の変化と人の綾が絡んでくる。 特に、「絹」に絡んだ間接的な出来事が、人と政権を左右する重要な役割を担っていたことに注目したい。

より流れを理解するために、もう少し時代を遡って見る。
前号でも、十九世紀半ば、ヨーロッパでは蚕の微粒子病が発生し、大量の健康な蚕種が必要とされていた。 鎖国時代の中でも唯一長崎出島で貿易を始めていた経緯から、養蚕啓蒙上垣守國(1753年生)の存在が広く知られていた。 信州、関東を経て奥州、福島まで足を伸ばして蚕種を仕入れ、郷里但馬(兵庫県)はもとより周辺の地域に販売しながら、若くしてかなりの財を築き上げた人物である。 更に、養蚕技術の改良・徹底と世間へ技術を普及するために、養蚕技術書を著わすことに専念し、51歳の1803年に『養蚕秘録』全三巻を上梓した。

次に登場する人物は、フランツ・フォン・シーベルトである。彼が日本に来たのは、上垣守國の『養蚕秘録』が刊行されて20年後の1823年夏であった。 シーボルトはドイツのウォルツブルグ市に生まれた。 伯父と父も有名な医学教授で医学界の名門の家であった。 オランダ国籍を得て、オランダ商館付医官として長崎・出島に着任した。 シーボルトは、1830年の暮れに帰国するまでの7年間膨大な日本の資料を入手した。 日本情報の調査・収集という特命など知らない幕府は、シーボルトに多くの特権を与えていた。 「シーボルト事件」は任期を終え、帰国する際に、折からの嵐によって船が座礁し、打ち上げられた積み荷の中から、国外持ち出し禁制の品が発見され罪に問われることになった。 この時「鳴滝塾」でシーボルトに従事した多くの学者が投獄される事態になった。
さて、問題の『養蚕秘録』もシーボルトが本国オランダに持ち帰った書物類の中に入っていた。 この本がフランス語に訳されていた。 その理由はフランス政府が、東洋の養蚕技術に高い関心を持っていたためである。 不思議なことに上垣守國の原著は英国博物館に所蔵されている。 この辺りも当時のヨーロッパの関係が浮き彫りされる。
この頃の登場人物やフランス政府との関係は、『パリ万博』更に、現在における世界遺産に登録された「富岡製糸場」に大きな影響と役割を担うことになったエポックメーキングの時代で目が離せない。
<次に続く>
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探索・シルクカントリー 絹と日本文化③ 田島弥平(伊勢崎市)

世界文化遺産と絹産業遺産群は、群馬県を中心に隣接した埼玉県、長野県に多くの記録や資料が残っている。 私の住む伊勢崎市と埼玉県深谷市は利根川を挟んで目と鼻の先である。 ところが、地図をよく見ると、川の中心が必ずしも県境になっておらず、川の曲線で、両県の飛び地があって複雑だ。 中でも埼玉県本庄市と深谷市に大きく食い込んだ、伊勢崎市の境島村地区。 平成の大合併前は、佐波郡境島村。 利根川が毎年のように氾濫して、そのたびに流路が大きく変わってきたためである。
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川岸に住む人にとって、通常の田畑ではすぐに水に浸かってしまい、苦肉の策で、上流から運ばれた土砂でも栽培できる桑を植えて生計をたてた。 川の水が畑を洗い流す役目を果たし、微粒子病の発生を抑えた事も、養蚕製造に適していた。 江戸後期の寛政年間島村では十二軒の農家が蚕種を製造していたという記録が残っている。 一方この厄介な利根川も、水運という視点から見ると江戸や横浜に直結する事で、当時の交通機関からは重要な役割を担っていたといえる。 かつては桑園が緑濃く広がって、桑の葉が収穫され食欲旺盛な蚕が桑の葉を食べる音が「雨音」に聞こえるほどだった。

田島弥平は、その養蚕盛んな土地に、幕末の文政5年(1822)に生まれている。 田島家も蚕種農家で、弥平は幼いころから自然に蚕に興味を抱くようになっていた。 元治元年(1864)蚕種輸出が解禁され、多くの蚕種農家が取り組み始めた。 蚕の飼育の成否は繭の収穫=生糸の生産量=生活に影響するため「蚕の飼育を安定させること」を弥平は考えた。 そこで蚕室の通風を良くする方法を考え、実行し「清涼育」と名付けた。 この持論に合致した住居兼蚕室を建築したのが、現存の「田島弥平旧宅」です。 文久3(1863)年築、瓦屋根総2階建て主室兼蚕室の棟上に喚気設備「櫓」(天窓また越屋根ともいう)が付いている。 (現存、子孫が住居に使用のため内部見学はできない) 田島弥平が「清涼育」を実践し蚕室は、「島村式蚕室」と呼ばれ、当時の養蚕農家の中心人物として注目されていた。

弥平が養蚕に精を出していた時代背景は、日本の歯車が大きく変わる激動の転換期を迎えていました。 『泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず』(狂歌)が詠まれたように、嘉永6(1853)年6月3日に浦賀沖に代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が来航した。 「幕末」と表現されるのは、この時から明治維新までを総称している。 歴史の授業で「鎖国」の内容を聞いたことがあるが、私には曖昧な所が多いが、江戸幕府が外交に関する権利を独占し、日本人の出入国及び貿易を管理・統制・制限した対外政策で、そこから生まれた日本の孤立状態を指す事を知りました。 鎖国体制は、第2代将軍秀忠の治世に(1612年)始まり、1858年タウゼント・ハリスと徳川幕府が日米修好通商条約を締結した事により鎖国が完全に終わった。 約250年間、徳川幕府の時代が続き、江戸文化があらゆる分野で、日本人の感性を織り込みながら謳歌した時代であり、創意工夫の工芸品が生まれる事にも繋がった。 幕末の横浜開港後、島村の蚕種製造農家は、当時微粒子病で養蚕に壊滅的な被害が出ていたヨーロッパ向けの蚕種輸出に積極的に取り組んでいた。

ここで私が注目したのは、1867年のパリ万国博覧会に日本が初めて参加した国際博覧会。 明治維新直前のことであり、幕末の政争が激化している最中での話。 登場人物を含め、事態の終結がどうなるのか、推理と記録を分析して多くの書籍が発刊されている。 そんな厳しい時代背景の中で、田島弥平がどのような経緯でイタリアに蚕種を輸送し現地で直接販売する事が実現できたのか。
<次回に続く>
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探索・シルクカントリー 絹と日本文化② 養蚕の起源

「衣・食・住」を問わず、人間の知恵と創意工夫の素晴らしさは、太古からの贈り物である。 養蚕は、中国から他国に伝わり、日本へは弥生時代に中国大陸から伝わったとされる。 紀元前の話であるが、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、弥生時代が始まったといわれる。 弥生時代から、新たな道具や文明の発達に伴って「衣・食・住」の生活様式も変化しながら、日本の文化や技術の匠も生まれてくる。 特に、「紙」の伝来と製紙法は六一〇年に高麗の僧、曇徴(どんちょう)によって伝えられたと記されている。 更に「日本書紀」の中には、聖徳太子が養蚕振興に尽力した事は、一般的にはあまり知られていないが、有名な聖徳太子17条の
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憲法にある第16条には養蚕の重要性が記述してある。(引用) 『一六曰、使民以時、古之良典。故冬月有間、以可使民。従春至秋、農桑之節。不可使民。基不農可食。不桑何服。』 要約すれば、「春から秋までは農作業や養蚕の時節だから民衆を使ってはならない。農作業をしないで何を食べると言うのか。養蚕をしないで何を着ると言うのか。」
一説には、聖徳太子に養蚕振興策を推進したのは、大陸からの渡来人である大豪族秦河勝(はたのかわかつ)と言われ秦一族は聖徳太子の側近として、京都山背の地に養蚕を営んでいた。 養蚕及び機織の技術は秦氏(はたうじ)の独占事業だった。
前号で蚕のつくる繭から細い糸を取り出す「蚕の一生」を説明したが、一粒の繭から1000~1500mの長さの糸がとれると言われる。 その繭糸をより集めた絹糸=生糸は、精練や染色等の工程を経て絹織物になっていく。 絹織物の主産地、京都・西陣(織)の基礎となる織物の技術も秦氏がもたらしたといいます。 そして、律令社会では「織部司(おりべのつかさ)」という部署が設置され、当時の皇族や貴族たちの織物が作られたのです。

国風文化が芽生えた平安時代になると、織物は次第に民間にも普及し、現在の西陣地域で綾、絹が織られたという。 応仁の乱=室町時代の応仁元年(1467年に発生し10年間にわたって継続した内乱。戦国時代に突入するきっかけとなった)この時に、京都の街の荒廃を経て、西陣はより発展を遂げ、最盛期は江戸時代(元禄16年)頃で、当時「織屋町160町」と言われ、その殷賑(いんしん)の様子が伝わってくる。 しかし西陣は1730(享保15)年と1788(天明8)年に二度の大火に見舞われ、職人達は一時、地方へ逃れ機織の技術を伝える。
群馬県桐生もその流れの一つ。 桐生では高機も導入され、一気に織物生産が高まり、群馬県の経済発展を支えてきた。 昭和10年前後が最盛期で、西陣を超える勢いだった。この最盛期に建てた洋館は今も健在です。 富岡製糸場と絹産業遺産群が世界文化遺産に登録され、養蚕、製糸、機織、織物といったキーワードが、メディアに取り上げられ、群馬の知名度もレベルアップした気がする。
特に養蚕は歴史の隅に追いやられ、「蚕」を知らない世代が増えていることも事実です。 そこで世界遺産に湧く今こそ「群馬県立日本絹の里」(高崎市金古町)を見学してはどうでしょうか。 館内では、1年を通して実際に生きた蚕を見学でき、常設展示の「シルクの川」では、蚕により親しく、家族で楽しめる企画があります。
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探索・シルクカントリー 絹と日本文化 プロローグ

今回から全表連新聞に「絹と日本文化」と題した連載を担当することになりました。 全国表具経師内装組合連合会の機関紙だけに、緊張と責任を感じながら、私なりに精一杯の努力をします。 私事で恐縮だが全表連新聞編集長から、「衰退している日本の絹産業に積極的に啓蒙活動をされている現状を、是非紙面に表現して欲しい」との熱い説得に、絹の専門家でもない私が、どこまで読者に伝える事ができるか、心配だが読評などを含めご指導ご鞭撻をお願いしたい。 連載にあたって、私の理念は、「日本(群馬)絹の恩返し」です。
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3年前に世界遺産に選定された「富岡製糸場」を中心に、シルクロードカントリーを探索しながら、養蚕の起源から筆の向くままに話を進めて行く。 「富岡製糸場」は2014年6月21日「世界文化遺産」登録決定。 6月25日に正式登録となった。国内の世界遺産としては18件目。 文化遺産では、「富士山」につづき14件目です。
私は伊勢崎市で住宅関連の会社を経営しておりますが、地元の産業復興に絹産業が取り上げられた折、絹に興味を抱きやがて本格的に事業の一つとして、真剣に取り組む事になった。 勿論、まだ「富岡製糸場」が世界遺産登録される以前の話です。

ある日、東京から知人の建築設計士が会社に妙な繊維の束を持って来られ「武井さんこれを製品化できるように開発してくれませんか?」と言われた。 話を聞けば、住空間の設計で新しい素材を考え、各地を視察した時に、安中市の国道18号線沿いにある「碓氷社本社」があり、そこで初めて珍しい「キビソ糸」を見て、早々に伊勢崎市の私の所に持ってきた繊維の束である。 簡単に言えば、蚕が最初に吐き出した糸で、一本の糸には沢山の繭玉が絡み合っているので、太さが一定にならない。 表現が悪いが絹の屑。 しかし良質の繭から巻き取られたキビソは一定量に纏められ乾燥、不純物を取り除くと艶のある糸になる。
最初にキビソ糸を見た時は、絹のイメージとは全く別物で製品開発どころか素材ゴミでしかないと思った。 ところが、キビソ糸が私の手に触れた時、不思議な霊感が伝わってきた。 例えて言えば、小馬鹿にした感情が戒められ、逆に癒されたような気持ちになった。 奇遇にも、ここから私の「絹の恩返し」が始まった。

養蚕を理解する上で、「蚕の一生」を簡単に説明する。 蚕蛾の産卵は夕方から翌日。蚕種・卵、ふ化する。 卵からふ化した幼虫は毛が長く「毛蚕(ケゴ)」と呼び、また、その姿から「蟻蚕(ギサン)」と呼ぶこともある。 このころの蚕は一齢幼虫という。ここから飼育の「掃立(ハキタテ)」が始まり、温度と湿度に気配りしながら、桑を与える。 この幼虫は3-4日で1回目の脱皮をして二齢幼虫になる。 この脱皮の繰り返しを数日間行い、蚕は食も増して、壮蚕、五齢が終齢幼虫となり体が透明になる。 これを熟蚕といい、このころから絹糸を吐いて繭を作り始める。 熟蚕となって糸を吐き始める前に「上ぞく」という作業に入り、蚕は糸を吐きだしながら約2日かけて繭をつくる。 蚕は繭を作り始め、約5日目に脱皮して蛹になる。 つまり、蚕は蛹を保護するために作るもので神秘的な一生と言える。 蛹は10日ぐらいで羽化して蛾になる。
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  ぐんま経済新聞

シルクの建築用壁紙を本格販売 タケイシルク新会社を設立 公共施設への無償提供検討


アパート管理や住宅販売を手掛けるアパートメント・プロ(伊勢崎市)の武井千秋社長は、シルクと和紙の天然素材で作る建築用壁紙「TakeiSilk(タケイシルク)」の本格販売に向け、このほど新会社 Japanインテリアシルク(伊勢崎市安堀町、電話番号0270-22-0100)を設立した。

「タケイシルク」は群馬県産のシルクのきび、「いちばん糸」を使った機能性と情緒を併せ持った壁紙。 完全受注生産で熟練の職人が1本1本丁寧に紡ぎ、京都の染職人の手により紙に裏打ち、染色して仕上げる。 これまでも群馬県1社1技術認定、14年グッドデザイン賞受賞、出雲大社奉納などのほか、伊香保温泉のホテル木暮特別室の内装に使われるなどの実績を持つ。
シルクを使用することで、壁紙に吸・放湿性、抗菌性、消臭効果が期待できるという。 カケンテストセンターが行った有毒ガスの除去性能評価試験では、シックハウス症候群の原因物質ホルムアルデヒドが2時間で95%、排気ガスやたばこの煙に含まれるアセトアルデヒドは24時間で82.5%、アンモニアは同96%減少。

武井社長は世界遺産登録で富岡製糸場が注目を集める中、国内の絹産業が壊滅的な状況にあることを憂いてきた。 世界に誇れる素材、絹の新たな活用方法を考えた結果が同商品。 販売価格は1平方メートル当たり約1万円。 武井社長はシルク壁紙の効能を役立ててもらおうと、病院や学校などの公共的施設への無償提供を検討、「希望施設があれば連絡が欲しい」と話している。 1施設100平方メートル以内で、3施設まで対応予定だという。(山田誠一)



  日刊工業新聞

シルク壁紙でガス吸着 アパートメント・プロ シックハウス対策

アパートメント・プロ(群馬県伊勢崎市、武井千秋社長、0270-22-1228)は、シルクと和紙の天然素材で作った建築用壁紙「TakeiSilk(タケイシルク)」を年内に発売する。 蚕が繭を作る際に最初にはき出す糸「きびそ」を横糸、生糸を縦糸に使用しているため、シルクの持つ吸・放湿性、抗菌性、消臭効果が期待できる。 シックハウス対策や室内でペットを飼う家庭向けに提案する。 価格は1平方メートルで1万円(消費税抜き)を想定している。
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「タケイシルク」はカケンテストセンターが行ったガスの除去性能評価試験で、ホルムアルデヒドを2時間で91%減少。 さらに光触媒加工した同壁紙は、アンモニアガスを24時間後に93%以上減少させた。
「きびそ」は太くて硬いことから、繊維として生糸に使われることはなかった。 しかし、水溶性たんぱく質が豊富に含まれ、紫外線吸収力や抗酸化作用があるといわれており、スキンケア商品の成分などに活用されてきた。
今回、同社は「きびそ」の持つガス吸着効果に着目し壁紙を開発した。 今後はカーテンやふすまなどインテリア商品への応用も視野に入れる。 一方、日本に続き中国でも「キビソ壁紙およびその製造方法」で特許を取得した。 養蚕量で世界トップの中国に生産拠点を設けるとともに、粒子状物質(PM)2.5対策として販売することも検討している。
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  上毛新聞

壁紙や備品客室中が絹 旅行会社に提案


蚕が最初にはき出す「きびそ」を素材にする壁紙を宿泊施設や住宅に施工販売する「JAPANインテリア・シルク」(伊勢崎市安堀町、武井千秋社長)は、内装や備品をシルク関連でそろえた客室「絹づくしの部屋」を旅行会社に提案する。 旅行会社のルートを生かし旅館やホテルへの販売を強化する。 一格上のぜいたくな旅行プランとしてPRする。
壁紙は、太さにばらつきのあるきびそを和紙に張って作製する。 蚕糸業の衰退を目の当たりにした武井社長が絹の需要拡大につなげるため、6年前に製品化した。 「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界文化遺産登録により絹に注目が集まる中、「絹づくしの部屋」の需要はあると判断し大手旅行会社などに売り込む。

伊香保温泉の老舗旅館、ホテル木暮(渋川市伊香保町伊香保)では2年前、露天風呂付き一室の内壁や天井に壁紙を張り、布団をシルク製にした。絹の着物を置き、化粧品もシルク由来のものにしている。 同館は「ぜいたく感があり、心落ち着くと利用客からの評判がいい」と話す。
昨年11月には、出雲大社(島根県)の権宮司、千家国麿さんと高円宮家の次女、典子さんの結婚を祝い、同様な製法による金屏風を出雲大社に奉納した。 武井社長は「絹は『インテリア』に活用する時代になっている。吸湿・放湿性に優れた絹の居心地の良さを感じてほしい」と話している。 ※問合せはJAPANインテリア・シルク(TEL:0270-22-0100)へ。




  日本経済新聞聞

出雲大社に絹の金びょうぶ 千家さん結婚祝いで奉納

出雲大社(島根県出雲市)の権宮司、千家国麿さん(41)と高円宮家の次女典子さん(26)の結婚を祝い、群馬県伊勢崎市で絹を使った壁紙などを販売する住宅建築業の武井千秋さん(56)が11日、絹製の金びょうぶを出雲大社に奉納した。
武井さんは「絹の良い香りを味わってほしい」と話している。
びょうぶは6枚折りのものが二つで、それぞれ縦約1.8メートル、横約4メートル。 金色の和紙の上に茶色に染められた絹の糸が縦横に織り込まれている。




  朝日新聞

「絹の国」→出雲 絹の金屏風 宮家結婚祝い 伊勢崎・武井さん

10月に結婚した島根県出雲市の出雲大社権宮司の千家国麿さん(41)と高円宮家の次女典子さん(26)を祝って「絹の国」群馬から絹糸をまとった金屏風が11日奉納された。 仮拝殿で奉納式があり、巫女舞や縦笛の演奏が披露された。 奉納されたのは、高さ182センチ、幅66センチの六曲一双の金屏風。 今年6月に世界文化遺産に登録された富岡製糸場のある群馬県で、絹を使った壁紙を広めている伊勢崎市の武井千秋さん(56)らが考案した。

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住宅建築を手掛ける武井さんは5年ほど前、かつて盛んだった養蚕、製糸業を再生しようと、絹糸を使った壁紙の販売を始めた。 「キビソ」と呼ばれる一番糸の耐久性に注目し、建築資材に応用。 今回は金色の和紙の上に、黄色と茶色のキビソで編んだ織物を重ねて、荘厳な風合いに仕立てた。
金屏風を受け取った千家さんは「非常に重厚で温かみがある。なるべく人がいる所で使わせていただきたいです」と喜んでいた。 武井さんは「出雲もお蚕とゆかりのある国と聞いている。絹の新しい使い方で地方創生につなげたい」と話していた。(小早川遥平)

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  上毛新聞

千家さん、典子さんの結婚祝い出雲大社に伊勢崎の業者が絹びょうぶを奉納

絹の国 世界遺産登録
出雲大社(島根県出雲市)の権宮司、千家国麿さん(41)と高円宮家の次女典子さん(26)の結婚を祝い、伊勢崎市で絹を使った壁紙などを販売する住宅建築業の武井千秋さん(56)が11日、絹製の金びょうぶを出雲大社 に奉納した。武井さんは「来客用の部屋に置くなどして飾っていただける とうれしい。絹の良い香りを味わってほしい」と話している。

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びょうぶは6枚折りのものが二つで、それぞれ縦約1.8メートル、横約4メートル。 金色の和紙の上に茶色に染められた絹の糸が縦横に織り込まれている。 千家さんは「重厚で温かみのある色で素晴らしい。お心遣いをもらい、とてもありがたく思っています」と話した。
ことし6月、世界文化遺産に伊勢崎市の田島弥平旧宅を含む「富岡製糸場と絹産業遺産群」が登録された。奉納に当たって、武井さんは需要低迷に悩む絹産業の復興の思いも込めたといい、「日本の絹産業が世界に認められた。登録を機に何とか生き残ってほしい」と語った。 千家さんは典子さんと10月5日、出雲大社で結婚式を挙げた。

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  山陰中央新報

二重の喜び「一番糸」で織り上げ 出雲大社に絹製屏風

出雲大社(出雲市大社町杵築東)権宮司の千家国麿さん(41)と高円宮家の次女典子さん(26)の結婚を祝い、群馬県で絹製品の普及に取り組む男性が11日、群馬産の絹屏風を出雲大社に奉納した。 男性は群馬県伊勢崎市で絹を使った壁紙などを販売する住宅建築業、武井千秋さん(56)。
今年6月、同県の富岡製糸場が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化

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遺産に登録されたことを受け、奉納された絹屏風を前に舞を披露する倭瑠七さん=出雲市大社町杵築東、出雲大社仮拝殿 結婚への祝意と絹産業の復興への思いを込めた。 屏風は六曲一双で、それぞれ縦約1.8メートル、横約4メートル。 全国表具経師内装組合連合会会長の佐藤岩夫さん(71)=東京都在住=が武井さんの依頼を受け7月から3カ月かけて制作した。
繭玉から最初に取り出される「一番糸」を茶色に染め、金色の和紙の上に縦横に織り込んでいる。この制作に携わった関係者ら約20人が出雲大社を訪問。 武井さんの知人で、横浜市の舞踏家・倭瑠七さんが屏風の奉納に併せ、群馬県産の絹を使った衣装を身にまとい仮拝殿で舞を奉納した。
国麿さんは「たくさんの方からの心遣いをありがたく思っている」と話し、武井さんは「おめでたいことが重なった今回を機に、絹の魅力を知ってもらい、後世に残したい」と語った。
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  日刊スポーツ

「一番糸の金びょうぶ」出雲大社に奉納

群馬・富岡製糸場発の技術が生んだ絹糸を使った「一番糸の金びょうぶ」が11日、島根・出雲大社に奉納される。 今年6月に登録された世界遺産から権宮司の千家国麿さん(41)と高円宮家の次女典子さん(26)の結婚で沸く出雲大社へ、世界初の一品が贈られる。

奉納される金びょうぶは、繭玉から最初に取り出す「キビソ」と呼ばれる一番糸で表面を編み上げた。 1個当たり1200メートルが糸となるうち、5~8%しかない貴重な部分で、繭玉の中核を形成。太さは不均一ながら耐久性に富んでいる。 従来、絹製品はなめらかな印象だが、表面はごつごつと重厚な輝きを放つ。 静電気が起きにくく、抗菌、難燃、調湿に優れている。
その特徴に注目し、キビソを使用した壁紙を数年前から販売、金びょうぶ製作にも尽力した住宅建築業の武井千秋氏(56)は「ウエア(衣料品)だった絹をインテリアに進化させることで製糸業を世界に広げたい」と力を込める。 出雲大社へ奉納することで、良質の絹製品を後世に残したいという。




  ぐんま経済新聞

「愛シルク」アパートメント・プロ(伊勢崎市)武井千秋さん

現在、全力で取り組んでいるのが養蚕と絹産業の復興。 富岡製糸場と絹産業遺産群が世界遺産に登録された一方、県内の養蚕は壊滅的状況。 「せっかく世界が認めてくれたのに、”主役”の養蚕や絹がすたれていては仕方がない」絹再生の道を模索し、思いついたのが、本業の建築とも関連する壁紙。 世界にない、絹でできた壁紙の誕生だ。 絹の壁紙を紹介しようと制作した「きび A SUPREME SILK」というパンフレットは02年度日本BtoB広告賞の金賞を受賞した。



  上毛新聞

絹づくしの部屋提案 ホテル木暮を6月改装

生糸が素材の壁紙を施工販売する、住宅建築のアパートメント・プロ(伊勢崎市安堀町、武井千秋社長)は、内装材やアメニティーをシルク関連でそろえる「シルクづくしの部屋」事業を始める。

第1弾として老舗旅館、ホテル木暮(渋川市伊香保町伊香保)の一室を6月にも改装する。 関連商品を手掛ける県内業者に事業への参加を呼び掛けている。
同社の壁紙は、蚕が最初に吐き出す糸「きびそ」を和紙に張った製品。 県内蚕糸業の球場を知った武井社長が、生糸需要の拡大につなげようと4年前に製品化した。 「シルクづくしの部屋」として関連商品をパッケージで販売すれば、需要創出効果が高まると判断した。 ホテル木暮は武井社長の打診を受け、露天風呂付きの客室改装を決めた。 壁紙を内壁や天井に張り、カーテンや布団、部屋着、下着類をシルク製に取り換える。 せっけんや化粧水などアメニティーもシルク由来のものにする。
若女将の木暮美奈子さんは「富岡製糸場を観光する宿泊者が増えており絶好のタイミング。 群馬の旅館で群馬特産のシルクのよさを感じてもらいたい」と期待。 評判が良ければ、アメニティーの販売や別の客室の改装を検討するという。

武井社長は、ホテル木暮を皮切りに、国内外で事業展開する考え。 「県内の養蚕の火を消さないためには需要をつくることが必要。志をともにできる仲間を募りたい」と話している。




  日刊木材新聞

絹と和紙で壁紙開発 自然素材で独特の風合い

住宅建築のアパートメント・プロ(群馬県伊勢崎市、武井千秋社長)は、絹糸のキビソと和紙を使った住宅用壁紙「ロイヤルエコシルク」を開発した。 有害化学物質を含まず、デザイン性に優れるなどの特徴がある。
キビソは、蚕が繭をつくるときに最初に吐き出す繊維。 固く太さが均一でないことから、加工が難しく、大半は糸くずとして処理されてきた。 たんぱく質セリシンが豊富に含まれ、高い保湿力や紫外線

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吸収力、抗酸化作用があることから、成分を抽出して化粧品などにも使われている。 ロイヤルエコシルクはこのキビソを編み込んで和紙に張りつけた壁紙。通常のクロスと同様に施工できる。 100%天然素材でシックハウスの心配がなく、調湿性能に優れる。 キビソは幅が1~5ミリと不均一で、これを緯糸として編み込んであり、凹凸により独特の風合いが生まれる。 製品と製造方法の特許を4月に取得しているほか、国交省の不燃材料、準不燃材料、F☆☆☆☆を認定取得。 カラーは10色。 自然素材志向のユーザーやホテル等での需要を見込んでいるほか、国指定の文化財の修復に働き掛けていく。

群馬県は旧官営富岡製糸場で知られ、昔から養蚕業が盛んな土地柄だが、近年は衰退が進んでいる。
武井社長は抗菌性や保湿性など壁紙に適した特性を持つキビソに着目し、商品開発を進めてきた。 建築材として生かせれば、県内の養蚕業の活性化にもつながると期待されている。 「養蚕業の再生を図ることが一番の目的。衣類に依存していたのでは再生は難しくそれ以外の観点から開発に挑戦してきた。シルクの価値観を大切にしながら普及を図っていきたい」(武井社長)と語っている。
また同社は、この壁紙のカタログで「第33回日本BtoB広告賞」の製品カタログ単品の部で最高の金賞に選ばれている。

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  上毛新聞

生糸と和紙の壁紙「きび」 カタログが最高賞 日本BtoB広告賞

住宅建築のアパートメント・プロ(伊勢崎市安堀町、武井千秋社長)の生糸と和紙を素材にした壁紙「きび A SUPREME SILK」のカタログが「第33回日本BtoB広告賞」製品カタログ単品の部で最高賞の金賞に選ばれた。 需要を増やして蚕糸業を守るという製品コンセプトを説明。 表紙に壁紙を張り、生糸のリボンで綴じるこったつくりに仕上げた。

BtoB広告は企業が企業に対して行う広告。 同賞は一般社団法人日本BtoB広告協会が主催する国内唯一の総合コンテストで、新聞広告やカレンダー、ウェブサイトなど12部門ある。 製品カタログ単品の部は14点の応募があり、同社のカタログは「素材を生かすという心が伝わり、自然の恵みという言葉が浮かぶ。 内容もデザインも金賞にふさわしい」と高く評価された。
コンテストの結果に武井社長は「他の受賞作品は大企業のものばかりなので驚いた。 販路を開拓し早く量産できる体制を整えたい」と話している。
同社は繊維製品以外で生糸の本格的な需要を開拓しようと、蚕が最初に吐き出す「きびそ」を和紙に張った壁紙を開発。 製品と製造方法の特許を4月に取得した。




  ぐんま経済新聞

「ぐんまエコ・シルク」を開発 ワンランク上の絹織り壁紙 養蚕業の活性化へ貢献

賃貸管理・戸建住宅販売のアパートメント・プロ(伊勢崎市安堀町、武井千秋社長 TEL:0270-22-1228)は、菊池襖紙工場(埼玉県草加市)と共同で、県産生糸を織り込んだ室内装飾壁紙「ぐんまエコ・シルク」(仮称)を開発した。

蚕が繭を作る時に最初に吐き出す「キビソ」と呼ばれる繊維を和紙に接着、縦横に織り込まれた太さの異なる糸が独特の風合いを放つ。

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武井社長は「100%自然素材で調湿性能に優れたシックハウス対策の壁紙」として特許出願中。 壁紙の開発に取り組んだのは2009年2月ごろ。県内の養蚕農家らで組織する碓氷製糸農業協同組合(安中市)の高村育也組合長との出会いがきっかけ。 「かつての近代化をリードし、世界にまで発信した群馬県の養蚕業の灯が消えかけていることを知り、何か役に立てることはないかと考え、当社の住宅に絹を原料にした壁材を使おうと思った」と武井社長。
壁紙には、同組合で生産した繭から採った「キビソ」を使用。 ふすま紙や壁紙を手掛ける菊池襖紙工場に製造依頼した。 制作に着手してからおよそ6カ月間、色や素材、可塑剤にも配慮して改良や試作品の開発を重ねた末に、和紙をベースに「キビソ」を織り込んだ「ぐんまエコ・シルク」(仮称)が完成。 民間検査機関の各種試験で、トルエンなどの有害化学物質を含まない建材として高い安全性が確認されているほか、2009年に県の「1社1技術」に選ばれた。
完成品は、できるだけ多くの人の目に触れるように、伊勢崎市市場町にある自社の建売住宅の壁に約100平方メートルを展示している。 リビングの照明を点灯すると、太さが異なる「キビソ」の凹凸が陰影を作り出し、昼夜で違った印象になる。

同社によると、和紙壁紙でありながら、通常のクロス張りの工程と大きな違いはなく、「壁材への模様付けも容易で、希望のデザインがあればできる限りの要望に応える。すでに英国のインテリアメーカーから引き合いが来ている」という。 県や富岡市を中心に、富岡製糸場などの文化遺産を、世界遺産に登録しようとする動きが強まっていることを商機ととらえ、国内はもとより海外にも積極的な販売展開を目指す考え。

【武井千秋社長の話】
全国一の繭・生糸生産を誇る群馬県の絹が、再び脚光を浴びれば、群馬の人は誇りを持てる。 絹を織り込んだ壁紙で、養蚕業の保存と継承を国内外に発信したい。 建築業界のマーケットへの導入を進め、通常とは異なるワンランク上のブランド商品として採用を目指し県内の養蚕業の活性化に貢献したい」と意気込む。(松田賢一)

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  ぐんま経済新聞

アパートメント・プロ社長 武井千秋さん

新潟から群馬に来て30年。 武井社長は現在、伊勢崎市で「より良い住まいの提供」を経営理念に、アパートの賃貸管理や戸建住宅を販売している。 入居者が「得をした」と感じるような住まいを提供するため、物件に独自のアイデア(付加価値)を付けることを心掛ける。
昨年、碓氷製糸農業協同組合の高村育也代表と会い、「かつて日本の近代化をリードし、世界にまで発信した群馬県の養蚕と製糸の灯が消えかけている」ことを知り、絹を原料にした壁材の商品開発に半年を費やした。 できるだけ多くの人の目に触れるよう、自社の建売住宅に完成品を展示している。
生計を立て、子を育んだ群馬の地。地域の人々への感謝の気持ちは長い時間を経て、この土地への愛着になった。 「初めてこの土地に来て、地域の皆さんに支えていただいたことを忘れずに、群馬が誇るべき歴史や伝統をこれからの若い世代につなげていけたらと思う。」 そんな武井社長が手にするのは、再起不能と言われた右肘痛からカムバックを果たし、独特の「マサカリ投法」で、40歳まで現役だった元ロッテの村田兆治投手の言葉「人生先発完投」。 逆境に負けない村田投手の不屈の精神が宿っているようだ。




  上毛新聞

県産絹と和紙で壁紙 天然素材アピール ホテル、住宅に期待

住宅建築のアパートメント・プロ(伊勢崎市安堀町、武井千秋社長)は絹糸の一種「キビソ」と和紙を使った住宅用の壁紙「ぐんまエコシルク(仮称)」を開発した。 上品で温かみのある質感をアピール、天然素材を好むホテルや住宅向けの販路を開拓する。 同社は県産シルクのブランド展開を建築業界で進める計画で、旧官営富岡製糸場の世界遺産登録に向け県内蚕糸業の活性化につなげる。
「キビソ」は製糸の際に、繭から糸口を探るためにすぐり取った糸。製糸工程で絹糸の重量の5~8%が「キビソ」となり、主にファッション雑貨品などに使われている。 「ぐんまエコシルク」は幅1~5ミリと不均一な「キビソ」を緯糸にして編むため、微細な凹凸により独特の質感が出る。 和紙に張り、通常の壁紙と同じように

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施工する。着色や図柄デザインなども容易という。
同社は「キビソ」を編み込んで和紙に張り付ける製法をすでに特許出願している。 同社によると、建築物用の壁紙は約 9割が化石燃料由来の製品。 「ぐんまエコシルク」は1平方メートル当たり2万~3万円と廉価品の20倍近い高価格だが、健康や環境への関心の高まりから、ワンランク上の天然素材が注目されており「ブランド展開により需要喚起は十分に可能」(武井社長)という。 同社は抗菌性や保湿性など壁紙に適した特性のある「キビソ」を有効活用しようと、今年1月からメーカーの協力を受けて開発に取り組んできた。
「キビソ」を提供する碓氷製糸農協(安中市)は「県産糸の新たな活用法が考案されるのは歓迎」としている。

同社は1997年創業。 住宅やアパートの施工・販売を手掛け、2009年3月期売上高は約2億5千万円。 武井社長は「壁紙として絹糸の用途を拡大できれば、県内養蚕業を活性化できる。建築業界でも群馬シルクのブランドを確立したい」と話している。

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